「ネタ被り」「設定被り」を恐れない勇気

小説を書いていると頭の中に色んな声がするものだけど、その中でも割と大きいものとして「ありきたり過ぎないか?」というものがある。


「ありきたり」という言葉は、多分創作をする上では割と強めの呪いの言葉であって、もちろん盗作や剽窃ではないにせよ、「こういう話もうあるじゃん」とか考えてしまうととたんに筆が止まってしまう。これは、ある意味では「オリジナル」とか「オリジナリティ」というものを強く求める、オリジナリティに憧れる気持ちの根っこにもなっていると思う。


そして、オリジナルとかオリジナリティを求めるあまり、何だかよく分からない、誰も見向きもしないような設定を考えだしてしまい、出来上がったものは単なる「奇抜な話」止まりになってしまい見向きもされない、というのがよくあるパターンであるような気がする。


そういう「ありきたり」という言葉に対抗する反論としては、「たとえ設定自体がありきたりであったとしても、実際に出来上がる話はそこにしかないものである」ということになると思う。もっと言ってしまうと、「うるせえ設定がありきたりでもこの話は俺が書きてえんだよ」ということになる。


冷静に考えて、この世に溢れる素晴らしい創作の数々を見れば、大抵の設定やネタは既に試行されていると考えるしかない。つまり、「誰も見たことがなくって、しかもちゃんとお話として成立するネタや設定」を考える難易度は極めて高い。どんな物語でも、くまなく探せば似たような類型はどこかしらに見つかるものだ。人類が物語を残し始めて2000年くらい経ってるんだぜ?という話だ。


そして、たとえ設定自体はありきたりであっても、いざちゃんと完成させてみると、そのお話はちゃんとお話としてはただ一つのものになっていて、そのお話を読んだ時の体験はその時だけのもの、と思えることの方が多い。これは、「ありきたり」という声に負けてお話を完成させなかったら、絶対に生まれなかった筈のものだ。


となれば、創作者としては、例え設定自体はありきたりであっても、その中で何かしら光るものを作れるか、印象に残る要素を一つでも詰め込めるかということを追求するべきであって、「ありきたり」の声になど負けている場合ではないのではないか。そんな風に思った。


という、自分自身の声に対する反論。